第一章 母の予定
二〇六〇年の秋、美和は待合室の前を一度通り過ぎた。
八十二歳の母を迎えに来た。若返りの導入治療を終える日だった。
窓際に座っていた若い女性が、靴のかかとを指で押している。母の靴と同じ色だった。薄い茶色。底が減るたびに修理して、十五年は履いている。
「美和」
母の声だった。
女性が立つ。立つ前に膝へ手を置く癖は残っていたが、身体は手を必要としなかった。ふっと、重さのない動きで立ち上がった。
「お母さん?」
「ほかに誰を迎えに来たの」
澄子は笑った。目尻の皺がなくなった分だけ、その笑いがどこへ収まるのか、美和にはまだわからなかった。
診療所の職員が維持薬と検査の日程を確認した。身体の評価は二十八歳程度だという。薬だけ飲んでいればよいわけではない。澄子は自分で端末を出し、次の受診日を登録した。美和の端末には通知が来なかった。
「家族への通知、外してもらったの」
「そう」
「また必要になったら頼むから」
美和は頷いた。鞄の中には、母の薬の一覧を印刷した紙がある。いつからか、画面を見せるより紙を渡すほうが早くなった。その紙を取り出しかけて、やめた。
外では、診療所の小さな植え込みを清掃機が回っていた。車椅子用の坂を歩いて下りながら、澄子が途中で足を止める。
「駅まで歩かない?」
「車、そこに停めたから」
「あ、そうだった」
美和が車を指すと、澄子は素直にそちらへ向かった。駐車料金はすでに八百円になっていた。
帰宅してから、澄子は押入れの上の箱を取ろうとした。
美和が椅子を押さえる。
「危ないから、私が」
「届くよ」
母のふくらはぎを、美和は見上げた。半年ほど前には、膝を伸ばすだけで顔をしかめていた。その足が椅子の上でまっすぐ立っている。
箱から出てきたのは、古い配達鞄だった。角が白く擦れている。
「まだあったんだ」
「捨ててって言われなかったから」
澄子は留め具を開けた。中には飴の包み紙が一枚あった。
「これ、誰がくれたんだったかな」
「覚えてないの?」
「何でもは覚えてないよ」
美和は椅子を元へ戻した。
*
翌朝、美和の端末に通知が来た。
〈母を病院へ送迎 午前十時〉
古い定期予定だった。消そうとして指を止める。その前に、母から短い連絡が届いていた。
〈今日、面接。お昼いらない〉
共同配送所の求人に応募したのだという。週四日、午前中心。採用されれば四週間の試用勤務がある。
〈急に決めたの?〉と打ち、消した。
台所の窓を開ける。団地の向かいの棟では、足場に沿って修繕用の機械が動いていた。人間の身体と違って、建物には若返る薬がない。来月から修繕積立金が上がる。
母の膝の通院費は減った。送迎で休む日も減る。それでも家賃は消えないし、美和の仕事もなくならない。
朝食を片づけてから、通知の「定期予定を削除」を押した。
すべての水曜日から、母の送迎が消えた。
午後、母から電話が来た。
「採用。来週から」
「よかったね」
「日曜日、どこか行こうか。今度は私が運転するから」
美和は壁の暦を見た。母の病院以外、何も書いていなかった。
「日曜、私も出かける」
「誰と?」
「まだ決めてない」
少し間があった。
「そっか。じゃあ、また今度ね」
電話を切ると、美和は昔の同僚、恵に連絡した。文面を二度直し、最後には「日曜、空いてる?」だけ送った。
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第二章 新人の道
澄子の研修担当は新田律といった。
歳は二十六だと、履歴書のやり取りで知った。澄子の孫より若い。けれど作業台の前に立つと、律は迷わず端末の画面を三つ切り替え、戻ってきた配送機の車輪を外した。
「ここ、触る前に停止状態を見てください」
澄子は手を止めた。昔の自転車なら、車輪を押さえればよかった。
「見た目が止まってても、動くことがあるんですね」
「あります。人が近くにいれば止まる設計ですけど、それを当てにして触らないでください」
律は澄子が自分で確認するまで待った。
配送所には、農園の箱が積まれていた。隣の棚には、鳥のような形の小さなロボットの交換部品。その奥には、町のアニメ工房から預かった印刷物がある。
以前は郵便だけ運んだ。いまは、冷やして運ぶものと揺らしてはいけないものが、同じ町を回っている。
「普通の荷物は機械で行きます。今日は、冷蔵庫の置き場所を確認する配達です。設置の説明があるので、人が行きます」
端末に最初の住所が出た。
澄子が笑う。
「ここ、近道があります」
律は経路を拡大した。
「道幅、足ります?」
「昔、配達してた道です」
「じゃあ、まず見に行きましょう」
川沿いの細道には、新しい柵ができていた。奥の橋は歩行者専用になっている。澄子が乗っている小型の配送車は通れない。
「知らなかった」
「地図には入ってます」
律は責めるような言い方をしなかった。そのほうが、澄子には少しこたえた。
正規の道へ戻り、予定より八分遅れて着いた。受取人は事情を聞くと笑ってくれたが、律は出発時刻を記録した。
*
午後、二件目の設置先へ向かった。
玄関までの階段には、箱を持ったまま曲がるには狭いところがあった。配送用の昇降機を律が準備する。
澄子は門柱の陰を見た。小さな呼び鈴が、低い位置にもある。
「下の鈴、先に押していいですか」
「どうしてですか」
「ここ、玄関まで出てくるのに時間がかかる人がいたんです。もう違うかもしれないけど」
押す前に、端末から受取人へ確認した。
〈下の門から搬入してもいいですか〉
返事が来た。
〈そちらが助かります〉
門の内側には、庭へ回る緩い坂があった。住人は代わっていたが、坂は残っていた。
律が昇降機を畳む。
「ここは搬入経路に追加できますね」
「昔の人は、こういうのを口で教えてたんです」
「それだと、澄子さんが休んだ日に困ります」
澄子は一瞬、何か言い返そうとした。それから端末を受け取った。
坂の入口を撮り、段差を測り、受取人の許可を記録した。記憶の中の道が、律の画面に入った。
配送所へ戻ったのは、終業三分前だった。
律が上着を取る。
「今日は、間に合った」
「約束ですか」
「友達とご飯です。僕だけ毎回遅れるので」
澄子も鞄を持った。
「じゃあ、帰りましょう」
門の鍵は律が閉めた。澄子はその横で、明日の経路を一度だけ見た。
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第三章 畑の社長
梨農園の杉浦正夫は、長靴の泥を払っていた。
見た目は澄子より少し年上に見える。実際は八十八歳だった。若返りを終え、今年から畑に戻ったという。
「鶴田さんまで戻るとはね」
「そちらこそ」
澄子が冷却庫の交換部品を下ろす間、正夫は畑の奥を指した。
「午後には、あっちも採る」
枝の下を収穫機が静かに進んでいる。実を支え、軸を切り、柔らかい受け皿へ下ろす。農園のAIが出す熟れ方の判定は、正夫が以前使っていた色見本よりずっと細かかった。
そこへ、作業着の女性が来た。正夫の孫の香織だった。
「午後の区画、変更したの?」
「あそこはもういいぞ」
「出荷先の箱が明日の朝なの。今日は採らないでって言ったでしょう」
正夫は黙った。
澄子は二人の間で、持っていた伝票を見直した。指定は香織の名前だった。会社名の横に、代表取締役、とある。
「香織さん、受取の確認をお願いします」
正夫へ向けかけた端末を、香織へ向けた。
正夫は少し離れた椅子へ座った。
昼の休憩になり、香織が梨を一つ切って持ってきた。三人で小さな机を囲む。
「味を見るのは、おじいちゃんが一番なの」
香織が言う。
「でも、出荷の予定まで急に動かすと、こっちが困る」
「畑にいると、待たせるのが惜しくなる」
「じゃあ、採り頃の提案だけ先に入れて。機械の判定と合わせて、私が決めるから」
正夫は梨を噛んだ。
「今日中に入れる」
「勝手に採らない?」
「採らない」
澄子の端末にも、午後の予定が届いた。正夫の気分が直るまでここにいたら、次の配達には遅れる。
空になった皿を重ねた。
「ごちそうさまでした。私、そろそろ」
香織が出口まで送ってくれた。
「おじいちゃん、また働けるのは嬉しいんです。私も嬉しい。でも、前に戻るわけじゃないので」
澄子は頷いた。
帰り道、端末に冷却庫の接続完了が出た。律が遠隔で確認したらしい。人の来訪と機械の仕事が、同じ一件の中で終わった。
*
その晩、美和が澄子の家へ傘を取りに来た。
骨の曲がりは直っていた。布の端には、小さな補強が入っている。
「どうやったの」
「修理工房へ持っていった。工具を借りて、教えてもらった」
「お母さんが全部直したのかと思った」
「傘の修理は、やったことないよ」
美和は傘を広げ、閉じた。
「日曜、恵と会った」
「あの、仕事の人?」
「そう。もう五年も会ってなかった」
「どうだった?」
美和は椅子へ座った。
「最初、何を話すかわからなくて。ずっとお母さんの病院の話、するところだった」
澄子は湯を沸かす手を止めた。
「ごめんね」
「謝ってほしいんじゃないよ」
湯が沸いた。澄子は二人分の茶を入れた。
「それで、何を話したの」
「恵、海の近くに部屋を借りてるんだって。今度、行くことにした」
「何日?」
美和は端末を出しかけて、澄子を見た。
「まだ決めてない。決まったら、留守にするって連絡する」
澄子は自分の湯呑みを持った。
「うん」
今週の薬が、棚の上に置いてある。美和はそれを数えなかった。澄子も、数えてもらうために近くへ置かなかった。
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第四章 届けなくていいもの
南野文子の工房は、元写真店の二階にあった。
七十一歳。澄子より若いが、絵を仕事にするのは今年が初めてだという。首に細い眼鏡紐をかけ、作業机の前で試し刷りを睨んでいた。
文子の描く小さな獣は、耳が片方だけ折れている。疲れると、自分の尻尾へ腰かける。海外の短い動画で人気が出て、町の上映会で初めて品物を売ることになった。
「かわいいですね」
「どこが?」
すぐに聞き返されて、澄子は絵を見直した。
「座り方。疲れたとき、私も、何でもいいから座りたくなる」
文子の眉間が少し緩んだ。
「それ、入れてよかったかなと思ってたの」
床には箱が二種類あった。完成品と、刷り直す予定のもの。配送依頼は完成品だけで、古いほうには赤い札がついていた。
「古いのは、使わないんですか」
「目の向きが違うの。私が直したいから」
「でも、よくできてますよ」
文子は答えず、新しい見本を机へ戻した。
澄子は完成品を台車へ載せた。古い箱は載せなかった。
階下で、地域の子ども教室を手伝う知人に会った。
「上の工房、かわいい品物、いっぱい作ってるね」
「刷り直す分もあるみたい」
「捨てるなら、子どもたちに使わせてもらえないかな」
澄子は、文子が昔、町内の催しへよく品物を寄付していたことを思い出した。
「聞いてみるね」
そこまではよかった。
けれど知人が喜ぶ顔を見て、つい付け加えた。
「たぶん大丈夫。南野さん、昔からそういうの好きだから」
*
翌日、文子から配送所へ電話が来た。
子ども教室から、寄付への礼を言われたという。
「私、あれを外へ出したくないって言いましたよね」
澄子は受話器を持ち直した。
「まだ約束したわけじゃ」
「先にお礼を言われたら、断りにくいでしょう」
机の向こうで、律が顔を上げた。
澄子は、自分が何を言ったのかを、ようやく相手の側から聞いた。
「私の言い方が悪かったです。教室には私から訂正します」
「お願いします」
電話が切れた。
律は仕事の記録を開いた。
「配送に関係する希望だけ、ここに入れてください。寄付や販売は、本人が決めることなので」
「昔は、喜んでくれたんです」
「今日は、どうだったんですか」
澄子は答えなかった。
教室へ電話をかけた。寄付は決まっていない、自分の見込みで話してしまった、と伝えた。知人は「そういうことなら」と言ってくれた。その声が少し残念そうなのを、澄子は最後まで聞いた。
夕方、文子の工房へ行った。
「昨日のこと、訂正しました」
「ありがとうございます」
文子は作業を続けていた。澄子は机の端に目を向けた。古い絵と新しい絵が並んでいる。
新しい獣は、ほかの誰かを見るように顔を上げていた。
「違い、わかりました」
文子の手が止まる。
「前のは、一人で座ってるように見えたけど。今のは、誰かを待ってる」
「うん」
文子は、その二枚を指で揃えた。
「私は、こっちを初めて見てもらいたかったの」
澄子は頷いた。七十一年生きていても、これは一度目なのだ。
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第五章 帰れる時刻
四週間の試用勤務が終わる前に、配送所の運用会議があった。
澄子が始めてから、対面配送の仕事は増えていた。機械の使い方を教えてほしい人や、受取場所を一緒に決めたい人から、申込みが来る。
同時に、終了時刻も遅くなっていた。
律が画面を壁へ映した。
「配達自体は予定どおりです。説明の延長と、その場で受ける追加の頼みごとで遅れています」
澄子には、身に覚えのある家がいくつもあった。
会議には、農園の香織、工房の文子、団地の住民代表、配送所の管理担当が来ていた。遠隔で参加している人もいる。
管理担当が人件費の欄を出した。
「澄子さんの本契約は、勤務枠を決めてからです。対面便を毎日続ける費用は、今の料金では賄えません」
澄子は机の下で手を握った。
若返ったのに、また働く場所を失うのかと思った。年齢のせいではない。そのことが、かえって言い訳をなくしていた。
「短い用事なら、私が帰りに寄るのは」
律が首を振る。
「帰りも仕事です。勤務の外にしたら、何分かかってるか見えなくなります」
澄子は口を閉じた。
住民代表の女性が言う。
「説明がいる日は、前もって予約できないの?」
「できます。ただ、当日頼みたいこともありますよね」
律が返した。
「それを全部、その日の担当者が引き受ける仕組みを変えたいんです。次の人を待たせますし、担当者も帰れません」
香織が画面を指した。
「部品の確認は、配達と遠隔で分けられるものもある。農園は、そうしてもらってる」
文子は少し考えてから言った。
「私は、品物は機械でもいい。でも初めて出荷する日は、一緒に数えてほしい」
澄子は文子を見た。文子も、こちらを見た。
律が項目を分けていった。人が行く仕事、遠隔で対応できる仕事、通常配送。対面便は週二日にまとめる。その場で追加された相談は、次の枠を案内する。
「急な故障は?」と香織が聞いた。
「修理の受付へ回します。対面便の担当者に、全部は背負わせません」
澄子の勤務は、想定していた週四日から週二日に減る。その分、収入も減る。
計算してから、澄子は言った。
「試してみたいです。終わる時刻が決まるなら、ほかの日も予定を入れられる」
管理担当が、翌週の上映会に合わせて試験運用する日を決めた。本契約の勤務枠と、足りない収入を補う仕事は、その実績を見て相談することになった。
*
配送所の門を閉めて、律と並んで歩いた。
「新田さん、友達とのご飯、また遅れたんですね」
「今週は二回」
「すみません」
「澄子さん一人のせいじゃないです。僕が頼みごとを断れなかった日もあります」
律は立ち止まり、横断歩道の信号を待った。
「仕事があるのは嬉しいです。でも、終わってからの時間も欲しい」
澄子は信号の向こうを見た。文子の工房には灯りがついていた。
「私、終わってから何をするか、まだあまりないんです」
「だから、作ればいいと思います」
「すぐできるものですか」
「僕も、そんなにうまくはないです」
信号が変わった。
澄子は帰宅して、翌週の予定表を開いた。配送のない木曜日に、修理工房の傘講座があった。参加費を見てから、申込みを押した。
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第六章 六時なら
上映会の朝、配送所には完成品の箱が六つ並んだ。
文子は何度も数を確認した。澄子は一緒に数えたが、箱を閉じる判断は文子を待った。
「これでお願いします」
文子が言ってから、封をした。
通常の便は配送機へ載せ、設営に説明が必要な箱だけを小型車へ運ぶ。律は全体の到着予定を確認していた。
「会場の手前で一件、冷却庫の説明です。そこで終わるのが十一時二十分。延長は、次の枠を案内してください」
「わかりました」
午前の受取人は、澄子と長く顔見知りの女性だった。冷却庫の説明を終えると、女性は戸棚の扉を指した。
「ついでに、これも見てくれない?」
澄子は時計を見た。蝶番が緩んでいる。直せるかもしれない。
けれど、修理の講座で借りた工具は家にあるし、次の仕事が待っていた。
「今日は、この後の予約があるんです。修理の受付を一緒に開きましょうか」
「鶴田さんなら、すぐだと思ったんだけど」
澄子の指が一瞬止まった。
「前は、できるだけその場でやってましたね。でも今日は、次の人を待たせてしまうので」
女性は時計を見た。
「そうか。じゃあ、頼み方だけ教えて」
受付が終わると、端末には十一時十八分と出ていた。
外で律へ完了を送った。二分余っている。澄子は急がず、車の荷室をもう一度確認した。
会場では、文子が机の後ろに立っていた。
最初の客が品物を手に取った。
「動画で見たのと、顔が少し違いますね」
文子の手が、机の縁を握る。
澄子は箱の陰で、その手を見た。代わりに説明したくなったが、黙って空箱を畳んだ。
文子が、新しい絵を指した。
「こっちは、誰かを待っている顔にしたんです」
客は二種類の見本を比べた。
「じゃあ、待ってるほうを」
文子の手が机から離れた。袋を開く動作だけ、少しもたついた。
澄子は午後の荷物を下ろし、配送所へ戻った。
*
終業時刻に、律が最後の配送機を格納した。
澄子の端末に勤務終了の確認が出る。二人とも、予定どおりだった。
管理担当から届いた連絡には、翌月の契約面談の日が書かれていた。週二日の対面便に、配送所内での出荷確認を週一日加える案。確定した契約は、面談してから交わす。
澄子は金額を確かめた。最初に見込んだ収入より少ない。それでも家計を見直せば、働き続けられそうだった。
「ここ、続けたいです」
律が頷いた。
「面談で、そう言ってください。僕からは今日の記録を出します」
澄子は来月の予定へ、面談の日を入れた。
美和から連絡が来た。
〈日曜、お昼どう?〉
澄子は予定表を開いた。修理工房で知り合った二人と、道具を買いに行く約束がある。
娘に誘われたのだから、動かせないこともない。指を画面の上に置いたまま、少し考えた。
〈昼は先約。六時なら〉
送ってから、言い方がそっけなかったかと思い、画面を見直した。
〈じゃあ六時。店は私が選ぶ〉
返事はすぐに来た。
〈楽しみにしてる〉
そこまで送って、端末をしまった。
律が翌週の地図を開く。
「次の研修、どの区画にします?」
澄子は「どこでも」と言いかけた。
川の向こうに新しい住宅が増えている。郵便を配っていたころは畑だった。そこに誰が暮らしているのか、澄子は知らない。
その区画を指した。
「ここを、教えてください」
律が経路に印をつけた。
*
日曜日、美和は海辺から戻る電車に乗っていた。
恵と過ごした部屋は、窓を開けると潮の匂いがした。二人で買い物へ行き、昼は惣菜を皿へ移しただけだった。母の話もしたが、それだけではなかった。
車窓には、収穫の終わった畑が続く。ところどころ、機械が土を均している。
美和は母との待ち合わせ場所を確認した。
母の外出を管理するための地図ではない。自分が行く店の地図だった。
六時少し前、店の入口で澄子が手を振った。
昔の配達鞄を持っている。今日はその中に、買ったばかりの小さな工具箱が入っていた。
「重くない?」
美和が聞く。
「ちょっと重い」
澄子は鞄を持ち直した。美和は自分の傘を畳む。直してもらった骨は、もう引っかからなかった。
二人で店に入った。
店員が席へ案内し、二つの水を置く。どちらが母かと尋ねることはなかった。
澄子は壁の時計を見る。
「今日は、八時には帰りたいの」
「明日、仕事?」
「うん。知らない道を教わる」
美和は献立を開いた。
「じゃあ、先に頼もう」
澄子も自分の献立を手に取った。
窓の外を、小さな配送機が通り過ぎる。
雨はやんでいた。
(完)